高齢者親子二人暮らしJIBIRAのブログ

高齢者親子の日々の生活や経験を綴ります~☆彡

父の記憶

 私が幼い頃は、父は私を可愛がってくれたらしい。確かに物心つくまでは、父と一緒に寝ていました。母が言うには、その頃は父はお酒が飲めなかったらしく、甘党だったそうです。

 父の仕事が営業の役割が多くなり、ちょうど日本の高度成長期とも相まって、仕事の延長で接待も多く、お酒の量も多くなり、毎日酔って帰宅するようになりました。私が小学校に上がる頃はストレスを家庭内暴力で発散するようになりました。以前も書いたように、ほとんど毎日暴れて、母にも暴力をふるうようになります。

 いつも父が暴れて家にいられなくなると、母と私たち子供で逃げたり、母は下のきょうだいを連れて出たりしていましたが、私が小学校4年生のとき、母一人で家を出たことがありました。一週間くらいしてから、母から夕方家に電話がありました。私たちを心配してたのでしょう。

 しかし、運悪く、感の良い父が仕事の合間に、家に立ち寄ったのです。私は慌てて電話を切りましたが、父は「電話はお母さんだろ!電話を替われ!居場所は聞いたか?」と怒鳴りました。私は母ではないと嘘をつきましたが、父にはお見通しです。すると、父は怒りが頂点に達したようで、「正直に言え!言え!」と言いながら、私を殴り続けました。10分ほど殴る蹴るを続けていたとき、母からもう一度電話がかかってきました。父は殴るのを止めて、電話にすぐ出ました。「今どこよ?帰って来なかったら、○○を殺すぞ!」母は仕方なく、今いる公衆電話の場所を教えました。

 父は私も一緒に行けと言います。私は鼻血を拭き、タオルを水で濡らして、散々殴られた顔を冷やしながら、車に乗っていました。私は泣きもせず、黙って顔を冷やし続けていると、父は言いました。

 「お前が悪いんだぞ。お母さんからの電話をすぐ替わらないから。」

 毎日地獄の中で、その時、心底父を憎んだ瞬間でした。

 

 私が中学校のとき、耐えかねて、母と私たちきょうだいは家出しました。狭い一間のアパートを借り、学校も転校し、三か月ほど貧しいけれど、何とか平和な毎日を送っていました。父は探し回りましたがなかなか私たちを見つけることができず、私がそれまで通っていた中学校の担任を脅して、転校先を聞き出したようです。現在は、家族にでも個人情報は教えませんが、当時は仕方なかったのです。

 父は家からアパートに私たちの荷物を少しずつ運んできました。数日後、アパートで父は私たちに泣いて謝り、もう暴力は振るわないから、帰って来てくれと言いました。母は離婚を切り出しましたが、それから毎日父がアパートに来るようになり、根負けして家に戻ることになりました。

 私は母に言ったのです。お父さんはもう治らないから離婚したほうがいいよ、私は定時制高校でもいいから働くしと。

 それから、父は仕事上も独立し、小さい会社を立ち上げました。家に戻って一か月もしたころ、父は母を怒鳴りつけ、殴ろうとしました。私はさすがに頭に来て、「お父さん!もう暴力は振るわないと誓ったでしょ!」と父に叫びました。案の定、「何を生意気な!」というと同時に、私の頬を平手打ちしました。私は悔しくて涙が出ました。

 

 その後、アルコール依存症、酒乱、被害妄想が更にひどくなり、私が成長するにつれて、暴力の対象は、母と私になりました。額縁や折りたたみ椅子や硬い木の箱、木刀、そして、ついに私の大学時代には、日本刀の真剣で頭を峰打ちされました。

 私の頭頂部は長らく刀の跡が盛り上がり、なかなか戻りませんでした。右手で自分をかばうことが多かったので、今でも指は突き指状態で治りません。右脚の太ももは、木刀で殴られた跡の筋肉がへこんでいます。恥ずかしかったのは、教育実習のときも家で殴られて、目の周りや頬に青あざができた状態で授業をしたときです。担当教諭や生徒には転んだと言っていました。

  

 父は晩年、脳卒中で半身不随になり、三年間ほぼ寝たきり状態になり、その後、肺がんが見つかり、私たち家族は仕事で多忙の中看病し、最後は高級なホスピスにいるとき、亡くなりました。

 父のいとこは、言いました。「本当だったら、家族に見捨てられ、野垂れ死にしてもいいくらいなのに、手厚い看病とこんなに盛大なお葬式を出してもらって、どういうことだろうかね。あなたたちの情の深さには驚くよ。」

 あれほど憎んだ父でしたが、亡くなったときはやはり悲しかったです。なぜ?こんな目にあって。

 私の人生を台無しにした両親なのに、今また母の介護も懸命にしています。