高齢者親子二人暮らしJIBIRAのブログ

高齢者親子の日々の生活や経験を綴ります~☆彡

母に対する複雑な思い

 毎日、認知症の母の世話をしていて、元々の性格や愚鈍さが更に尖鋭化している姿を見て、心の中で嫌悪している自分がいます。反面、少しでも心地よく過ごせるように工夫したり、美味しい食事を作り、散歩や病院に連れて行き、笑わせたり、子供を育てるとき以上に愛情を注いでいます。

 母は、若い時からヒステリックで、わがままで、長女の私に対しては、嫉妬の対象でもあり、自分の所有物のように過干渉で束縛も異常でした。

 娘を虐待死させるような事件のテレビやマスコミの報道で、その被害者の写真を見ると、幼い娘にドレスを着せたり、いかにも娘を可愛がっているような写真が多いような気がします。

 母もよく可愛い洋服や着物を着せてくれました。父が自分の飲み代を優先して、家庭に入れる生活費は限られていたのに、高価な品でなくても手作りや手編みだったり、知人に仕立てを頼んだりしていました。

 また、母はとてもきれい好きで、一日に何度も掃除し、買い物など外出するときは、私に掃除をするように言って出かけていました。私は小学生くらいまでのんびりとした性格の子供でした。成長するに従い、正反対になりましたが。

 いつものように外出先から母が帰ってくると、掃除をしたか、私に尋ねます。私があやふやな返事をすると母のイライラはエスカレートしていき、しまいにはだんまりを決め込んでいる私の耳や頬をつねります。なんとか言え!とホウキで叩きます。そして、そんなにお母さんの言うことをきかないんだったら、一緒に死のうと叫びながら台所のガス栓をひねります。私は慌てて、ガス栓を閉めに行きます。そしてやっと、「ごめんなさい」と謝ります。

「だって、掃除をしなくても、朝昼晩お母さんが掃除してるからキレイなのに・・・」といつも私は心の中で思っていました。

 いつも両親の顔色ばかりうかがっていると、無表情になり、かえってのんびり屋になるのでしょう。父は暴力、母からは「ばか、あほ、まぬけ」の連発とホウキや布団叩きや平手打ちによるシツケが日常茶飯事です。私自身はそのせいで、ずっと自分をバカだと思っていました。中学生になり、テストの成績が学年上位に入っていることを知ってから、違ったんだと実感するようになりました。

 毎日が修羅場の家庭環境から目を背けるように、私は美しい物や芸術に関心が高くなりました。演劇やクラシックやバレエ、ミュージカルなどテレビで見るしか方法はありませんでしたが、裕福な友人からレコードを借りたりもしていました。

 中学生になり、演劇部に入りました。母に言うと「私に許可も取らず、何が部活よ!」と言われましたが、中学二年生のとき、父から逃れるため母と私ときょうだいで家出するまで、続けました。せっかく転校したのに、二か月で父に見つかりまた元の生活に戻りましたが。

 高校生になり、演劇部と合唱部に入りました。またもや母の反対に合い、それでも何とか続けていましたが、二年生のとき、担任教諭の推薦で生徒会役員にされてしまいました。

 案の定、母は担任教諭に怒鳴り込んで行き、「うちの子は自分の面倒もみられないのに、他人の面倒なんかみられません!」担任教諭は、「本人の責任感や人柄・成績も良く、皆から尊敬されているので、推薦しました、大学入試にも有利ですよ」と説得し、「うちの子は外面がいいので、みんな騙されているんです!云々」とわめく母にも動じませんでした。

 けれど、それから母はますます私を目の敵にして、同級生が「継母なの?」と聞くぐらいでした。行事のある前後などは生徒会の仕事が特に多く、帰宅が午後6時頃になるときなどは、母は玄関の前でホウキを握りしめ、仁王立ちで私を待っていました。そして、叫ぶ、叩く、カバンを投げる等々。

 生徒会長たちに事情を告げ、早く帰宅させてもらうように頼みましたが、それでも私がする仕事も多く、やむを得ず遅くなり、男子役員が3人、家まで送って来てくれました。一緒に謝ってくれると言いましたが、かえって余計怒られるから遠慮すると言ったのですが、3人ともついてきてくれました。

 母は男子役員には、ひきつった顔で何とかやり過ごしました。3人が帰った後は、予測通り、「このバカは、怒られると思って他人を連れてきて!」といつもの虐待です。

 今、「ヤングケアラー」が問題になっていますね。どんなに学校行事で忙しくても、定期テストや入試があっても、頻繁に暴れる父とヒステリックな母のもと、宿題や勉強もそこそこに、私は年の離れたきょうだいたちの面倒をみて、家事や大人並みに家業の手伝いもしていました。それでもそこそこの公立の高校大学に入れたので、まだ幸いだったのですね。大学時代も両親は講義が終わるとすぐ帰宅しろと私に命令していました。同級生たちが可愛いワンピースを着て、ダンスパーティーやコンサートに行く年頃、私は休みもなく、家業と両親きょうだいに奉仕していました。

 大人になって、家業に就いてからも、両親からの言葉と暴力の虐待は続きました。そして、倒産、今に至るわけです。父のことはあらためて書くことにして。(しつこいなあ)

 休みもなく仕事をし、徹夜を還暦を過ぎても続け、父が亡くなるまで旅行も行けず。内緒で数回大好きなクラシックバレエ公演を観に行きましたが。 

 自分の人生を振り返る時、子供は親を選べなかったのだから仕方ないとあきらめるしかありません。家を出て、自分で独立できればよかったのですが、家業の重要な役割をしていましたし、一度出ると決心したとき、父は暴れながら、母ときょうだいに危害を加えると脅したのです。昭和の時代、それでもどこにも相談できませんでした。

 けれど、他人である恩師や友人、知人、顧客の方々に恵まれ、私は自己肯定でき、何とか生きてこられたのだと思います。加えて、仕事が好きなのです。

 母は昔からいつも言っていました。

「年とっても、おまえには絶対世話にならないからな!」

 先日、母はベッドや床に大量に失禁したので、今日もベッドの防水シーツを敷いたのでした。

 あ、両親に感謝することがひとつありました。私は今は見る影もありませんが、若い頃は評判の美人だったのです💛(*ノωノ)