高齢者親子二人暮らしJIBIRAのブログ

高齢者親子の日々の生活や経験を綴ります~☆彡

ボイジャー1号2号の遥かなる旅

 ボイジャー1号・2号が打ち上げられてから、9月5日で45年経ったそうだ。1977年の打ち上げは感動的だった。人類の文明の記録である「ゴールデンレコード」を搭載していることも話題になった。そして、惑星の重力を利用したスイングバイにより、加速することにも驚いた。

 1号と2号は、はるか遠くの星間空間を進んでいるそうだ。地球から何と約160億キロメートル以上離れたところだ。想像がつかない距離だ。

 当時、外惑星の木星土星などの画像が撮影・発表され、感動と同時に大いなる期待も抱いた。その期待通り、小惑星などに衝突することもなく、破損もなく、遠い旅路につき、今も素晴らしいデータを送って来ているそうだ。最近、問題があったそうだが、それも解決され、さらに進んでいる。

 「はやぶさ」のときもそうだったが、何だか探査機を擬人化し、非常に愛おしく思われる。あと数年、10年ほどで電源による電力の供給が断たれるかもしれないそうだが、命を全うするまで無事でいてほしい。心から「ご苦労様!」と言いたい。

 アリゾナ州立大学の惑星科学者でボイジャーのミッション40周年に関する本の著者であるジム・ベル氏は言ったそうだ。「ゴールデンレコード」を発見するのは、エイリアンではなく宇宙旅行に出掛けた人類の子孫かもしれないと。

 なるほど、そうかもしれないと思った。だが、それまで、無事に人類が生き残ってほしいとも思った。

 

 (出典元 WIRED US/Edit by Daisuke Takimoto)

 

母と祖母のビックリ会話エピソード

 母方の祖母は、冷静で賢く料理も上手で、独身時代は教員をしながら家業の経理などの手伝いもしていました。結婚後は夫である祖父の事業の補佐もするなど、使用人の教育もしており、皆から尊敬され感謝されていたようです。

 祖父も地域の役員や今でいうところのボランティアや学校のPTA会長など、社交的で慈善事業にも力を入れていたようです。祖父祖母とも知性と教養があり、伯父がその血筋を受け継いだようです。

 母はといえば、長女ということもあり、祖父から甘やかされ、わがままで、我慢のできない子供に育ちました。そのくせ、見栄っ張りで劣等感の塊でもあります。何を教えても言うことを聞かない母に対して、祖母はいつも冷静で声を荒げることもなく、淡々と躾をしたそうです。物事の道理や人間の情など、いつも母に言っていたそうですが、母はいつもうわの空で、内緒で芝居や映画を見に行くことばかり考えていたそうです。

 祖母は、華やかで社交的な祖父とは正反対で、明治生まれにありがちな保守的な人でした。母は派手好きでおしゃれなところは祖父に似たようで、祖母からいつも諭されていました。

 街を行きかう人やポスターなどで、派手な格好やマニキュアを塗っている女性とかを見るたびに、祖母は母に言っていたそうです。「あんなソウビレイみたいに派手な格好をしたらいけないよ。女性は質素で上品でなければいけないのよ。」事あるごとに、「ソウビレイみたい、ソウビレイみたい」とよく言っていたそうです。

 母は「ソウビレイ」が何のことかはわからないまま成長して大人になったのでした。言葉だけは覚えていたそうです。

 時は変わって、1997年、話題の映画が発表されました。

 それは、日本香港合作の「宗家三姉妹」です。母も私も歴史物などの映画・ドラマは大好きで、レンタルビデオになったとき、自宅で一緒に見ました。

 映画の後半、ストーリーも盛り上がりを見せ、山場を迎えます。「宗家三姉妹」の運命的な人生の最終場面で、母は末妹のファッションに目を奪われます。

 「あ!これがソウビレイだ!これがソウビレイだったんだ~!」

 派手な毛皮をまとい、パーマのかかった髪、どぎつい化粧、真っ赤なマニキュアの指先、ハイヒール・・・

 そうそれは、蒋介石夫人、「宋美齢」だったのです。

 母はちょうど還暦を迎えたばかりでした。祖母は前年にもう亡くなっていました。

 母は涙を流しながら、「お母さんはいつも宋美齢のことを言っていたんだね。格好だけでなく、生き方も・・・」

 祖母が生きているうちに、「宋美齢」のことがわかれば、笑い話になったことでしょう。母親を亡くした実感がよみがえったことと、無知な自分に対しての情けない気持ちがあふれたのだと思います。「還暦になって、やっと宋美齢のことがわかるなんて、お母さんごめん・・・」

 母は学校の成績は良くありませんでしたが、センスの良さと手先が器用なこと、読書・演劇・映画・歴史が好きなところを、両親から受け継いでいたのでした。そして、かく言う私も母と好みは同じです。

あ、それが母の長所になるのかなあ・・・私も現在母との時間を大切にしたほうが良いのだなあ。

 

父の記憶

 私が幼い頃は、父は私を可愛がってくれたらしい。確かに物心つくまでは、父と一緒に寝ていました。母が言うには、その頃は父はお酒が飲めなかったらしく、甘党だったそうです。

 父の仕事が営業の役割が多くなり、ちょうど日本の高度成長期とも相まって、仕事の延長で接待も多く、お酒の量も多くなり、毎日酔って帰宅するようになりました。私が小学校に上がる頃はストレスを家庭内暴力で発散するようになりました。以前も書いたように、ほとんど毎日暴れて、母にも暴力をふるうようになります。

 いつも父が暴れて家にいられなくなると、母と私たち子供で逃げたり、母は下のきょうだいを連れて出たりしていましたが、私が小学校4年生のとき、母一人で家を出たことがありました。一週間くらいしてから、母から夕方家に電話がありました。私たちを心配してたのでしょう。

 しかし、運悪く、感の良い父が仕事の合間に、家に立ち寄ったのです。私は慌てて電話を切りましたが、父は「電話はお母さんだろ!電話を替われ!居場所は聞いたか?」と怒鳴りました。私は母ではないと嘘をつきましたが、父にはお見通しです。すると、父は怒りが頂点に達したようで、「正直に言え!言え!」と言いながら、私を殴り続けました。10分ほど殴る蹴るを続けていたとき、母からもう一度電話がかかってきました。父は殴るのを止めて、電話にすぐ出ました。「今どこよ?帰って来なかったら、○○を殺すぞ!」母は仕方なく、今いる公衆電話の場所を教えました。

 父は私も一緒に行けと言います。私は鼻血を拭き、タオルを水で濡らして、散々殴られた顔を冷やしながら、車に乗っていました。私は泣きもせず、黙って顔を冷やし続けていると、父は言いました。

 「お前が悪いんだぞ。お母さんからの電話をすぐ替わらないから。」

 毎日地獄の中で、その時、心底父を憎んだ瞬間でした。

 

 私が中学校のとき、耐えかねて、母と私たちきょうだいは家出しました。狭い一間のアパートを借り、学校も転校し、三か月ほど貧しいけれど、何とか平和な毎日を送っていました。父は探し回りましたがなかなか私たちを見つけることができず、私がそれまで通っていた中学校の担任を脅して、転校先を聞き出したようです。現在は、家族にでも個人情報は教えませんが、当時は仕方なかったのです。

 父は家からアパートに私たちの荷物を少しずつ運んできました。数日後、アパートで父は私たちに泣いて謝り、もう暴力は振るわないから、帰って来てくれと言いました。母は離婚を切り出しましたが、それから毎日父がアパートに来るようになり、根負けして家に戻ることになりました。

 私は母に言ったのです。お父さんはもう治らないから離婚したほうがいいよ、私は定時制高校でもいいから働くしと。

 それから、父は仕事上も独立し、小さい会社を立ち上げました。家に戻って一か月もしたころ、父は母を怒鳴りつけ、殴ろうとしました。私はさすがに頭に来て、「お父さん!もう暴力は振るわないと誓ったでしょ!」と父に叫びました。案の定、「何を生意気な!」というと同時に、私の頬を平手打ちしました。私は悔しくて涙が出ました。

 

 その後、アルコール依存症、酒乱、被害妄想が更にひどくなり、私が成長するにつれて、暴力の対象は、母と私になりました。額縁や折りたたみ椅子や硬い木の箱、木刀、そして、ついに私の大学時代には、日本刀の真剣で頭を峰打ちされました。

 私の頭頂部は長らく刀の跡が盛り上がり、なかなか戻りませんでした。右手で自分をかばうことが多かったので、今でも指は突き指状態で治りません。右脚の太ももは、木刀で殴られた跡の筋肉がへこんでいます。恥ずかしかったのは、教育実習のときも家で殴られて、目の周りや頬に青あざができた状態で授業をしたときです。担当教諭や生徒には転んだと言っていました。

  

 父は晩年、脳卒中で半身不随になり、三年間ほぼ寝たきり状態になり、その後、肺がんが見つかり、私たち家族は仕事で多忙の中看病し、最後は高級なホスピスにいるとき、亡くなりました。

 父のいとこは、言いました。「本当だったら、家族に見捨てられ、野垂れ死にしてもいいくらいなのに、手厚い看病とこんなに盛大なお葬式を出してもらって、どういうことだろうかね。あなたたちの情の深さには驚くよ。」

 あれほど憎んだ父でしたが、亡くなったときはやはり悲しかったです。なぜ?こんな目にあって。

 私の人生を台無しにした両親なのに、今また母の介護も懸命にしています。

母に対する複雑な思い

 毎日、認知症の母の世話をしていて、元々の性格や愚鈍さが更に尖鋭化している姿を見て、心の中で嫌悪している自分がいます。反面、少しでも心地よく過ごせるように工夫したり、美味しい食事を作り、散歩や病院に連れて行き、笑わせたり、子供を育てるとき以上に愛情を注いでいます。

 母は、若い時からヒステリックで、わがままで、長女の私に対しては、嫉妬の対象でもあり、自分の所有物のように過干渉で束縛も異常でした。

 娘を虐待死させるような事件のテレビやマスコミの報道で、その被害者の写真を見ると、幼い娘にドレスを着せたり、いかにも娘を可愛がっているような写真が多いような気がします。

 母もよく可愛い洋服や着物を着せてくれました。父が自分の飲み代を優先して、家庭に入れる生活費は限られていたのに、高価な品でなくても手作りや手編みだったり、知人に仕立てを頼んだりしていました。

 また、母はとてもきれい好きで、一日に何度も掃除し、買い物など外出するときは、私に掃除をするように言って出かけていました。私は小学生くらいまでのんびりとした性格の子供でした。成長するに従い、正反対になりましたが。

 いつものように外出先から母が帰ってくると、掃除をしたか、私に尋ねます。私があやふやな返事をすると母のイライラはエスカレートしていき、しまいにはだんまりを決め込んでいる私の耳や頬をつねります。なんとか言え!とホウキで叩きます。そして、そんなにお母さんの言うことをきかないんだったら、一緒に死のうと叫びながら台所のガス栓をひねります。私は慌てて、ガス栓を閉めに行きます。そしてやっと、「ごめんなさい」と謝ります。

「だって、掃除をしなくても、朝昼晩お母さんが掃除してるからキレイなのに・・・」といつも私は心の中で思っていました。

 いつも両親の顔色ばかりうかがっていると、無表情になり、かえってのんびり屋になるのでしょう。父は暴力、母からは「ばか、あほ、まぬけ」の連発とホウキや布団叩きや平手打ちによるシツケが日常茶飯事です。私自身はそのせいで、ずっと自分をバカだと思っていました。中学生になり、テストの成績が学年上位に入っていることを知ってから、違ったんだと実感するようになりました。

 毎日が修羅場の家庭環境から目を背けるように、私は美しい物や芸術に関心が高くなりました。演劇やクラシックやバレエ、ミュージカルなどテレビで見るしか方法はありませんでしたが、裕福な友人からレコードを借りたりもしていました。

 中学生になり、演劇部に入りました。母に言うと「私に許可も取らず、何が部活よ!」と言われましたが、中学二年生のとき、父から逃れるため母と私ときょうだいで家出するまで、続けました。せっかく転校したのに、二か月で父に見つかりまた元の生活に戻りましたが。

 高校生になり、演劇部と合唱部に入りました。またもや母の反対に合い、それでも何とか続けていましたが、二年生のとき、担任教諭の推薦で生徒会役員にされてしまいました。

 案の定、母は担任教諭に怒鳴り込んで行き、「うちの子は自分の面倒もみられないのに、他人の面倒なんかみられません!」担任教諭は、「本人の責任感や人柄・成績も良く、皆から尊敬されているので、推薦しました、大学入試にも有利ですよ」と説得し、「うちの子は外面がいいので、みんな騙されているんです!云々」とわめく母にも動じませんでした。

 けれど、それから母はますます私を目の敵にして、同級生が「継母なの?」と聞くぐらいでした。行事のある前後などは生徒会の仕事が特に多く、帰宅が午後6時頃になるときなどは、母は玄関の前でホウキを握りしめ、仁王立ちで私を待っていました。そして、叫ぶ、叩く、カバンを投げる等々。

 生徒会長たちに事情を告げ、早く帰宅させてもらうように頼みましたが、それでも私がする仕事も多く、やむを得ず遅くなり、男子役員が3人、家まで送って来てくれました。一緒に謝ってくれると言いましたが、かえって余計怒られるから遠慮すると言ったのですが、3人ともついてきてくれました。

 母は男子役員には、ひきつった顔で何とかやり過ごしました。3人が帰った後は、予測通り、「このバカは、怒られると思って他人を連れてきて!」といつもの虐待です。

 今、「ヤングケアラー」が問題になっていますね。どんなに学校行事で忙しくても、定期テストや入試があっても、頻繁に暴れる父とヒステリックな母のもと、宿題や勉強もそこそこに、私は年の離れたきょうだいたちの面倒をみて、家事や大人並みに家業の手伝いもしていました。それでもそこそこの公立の高校大学に入れたので、まだ幸いだったのですね。大学時代も両親は講義が終わるとすぐ帰宅しろと私に命令していました。同級生たちが可愛いワンピースを着て、ダンスパーティーやコンサートに行く年頃、私は休みもなく、家業と両親きょうだいに奉仕していました。

 大人になって、家業に就いてからも、両親からの言葉と暴力の虐待は続きました。そして、倒産、今に至るわけです。父のことはあらためて書くことにして。(しつこいなあ)

 休みもなく仕事をし、徹夜を還暦を過ぎても続け、父が亡くなるまで旅行も行けず。内緒で数回大好きなクラシックバレエ公演を観に行きましたが。 

 自分の人生を振り返る時、子供は親を選べなかったのだから仕方ないとあきらめるしかありません。家を出て、自分で独立できればよかったのですが、家業の重要な役割をしていましたし、一度出ると決心したとき、父は暴れながら、母ときょうだいに危害を加えると脅したのです。昭和の時代、それでもどこにも相談できませんでした。

 けれど、他人である恩師や友人、知人、顧客の方々に恵まれ、私は自己肯定でき、何とか生きてこられたのだと思います。加えて、仕事が好きなのです。

 母は昔からいつも言っていました。

「年とっても、おまえには絶対世話にならないからな!」

 先日、母はベッドや床に大量に失禁したので、今日もベッドの防水シーツを敷いたのでした。

 あ、両親に感謝することがひとつありました。私は今は見る影もありませんが、若い頃は評判の美人だったのです💛(*ノωノ)

 

9月だなぁヤマボウシの実が熟している

街路樹のヤマボウシがたくさん実を付けています。熟して地面に落ちているものも。公園や歩道なので、取るわけにもいかず。ドライフルーツやジャムにしたら美味しいとのこと。食べたことはありませんが。ハナミズキの街路樹も多いですが、実は有毒らしいです。花は可憐ですが。

落雷被害と損害保険の話

 15年ほど前のこと。二年続けて、自宅に雷が落ちました。一回目の被害は少なかったのですが、二回目がひどかったのです。屋根の上のテレビアンテナに落ち、建物全体が帯電したようで、電気のメーターや外壁の雨どいも焼けて真っ黒に。火事にならなかったのは幸いでした。

 二回目の日は7月で、朝から雷と大雨でしたが、結構雷が多い地域で慣れていたので、予めパソコンのコンセントなどは抜いていました。

 午前10時頃、ピカッと光ると同時にドーンという衝撃音が。直撃の場合は、コンセントを抜こうが関係ないですね。私はデスクトップパソコンに無停電装置も付けていたのですが、バッテリーが破裂して液漏れになり、コンセントのフタは吹っ飛んでいました。エアコン4台、パソコン3台、プリンター2台、テレビ3台、DVDレコーダー、ラジカセ、固定電話など、多数ダメになりました。不思議と冷蔵庫と洗濯機は無事でした。

 外を確認したら電気メーターが真っ黒に焼けていたので、電力会社に電話しました。案の定、ずっと話中。電話がつながったのは、夕方でした。それも、応対はぞんざいで修理はいつになるかわからないとのこと。私がメーターが真っ黒に焼けていますが、いいですか?と言ったら、あ、それでしたら明日中に伺いますとのこと。何なんだ?

 それから、電気屋さんに電化製品の修理と買い替え、損保会社に被害状況を伝え、手続きをお願いしました。

 しばらく、暑いし不便だしお金もかかるし、ほんとうにたいへんでした。でも、家財保険に入っていたので、何とか賄えるだろうと軽く考えていました。

 実は、私は農協の家財保険に、同居しているきょうだいはAIU保険(当時)の家財保険にそれぞれ入っていました。同居しているので、住所は当然同じですが、所有物は私ときょうだいでは違います。そして、それぞれの保険会社に電話しました。

 代理店を通して書類等を提出し、連絡を待っていました。ところが、1か月以上経っても、どちらも連絡が来ません。しびれを切らして、こちらから連絡すると、農協は言葉の歯切れが悪く、

「あの~、AIUにも入っていたのですね。」

 私はきょうだいが入っていますと答えました。

「実は按分の件で、AIUの主張と農協の意見とが合わなくてですね・・・」

 私「え?何ですか?按分?」

 農協は、詳しくはAIUに聞いてくださいと申し訳なさそうに言いました。私はAIU代理店に電話すると、AIUの支店事故担当者にかけなおしてくれとのこと。

 担当者は開口一番、「〇〇さんねぇ、損害保険というのは、二重取りなんてできないんですよ!同じ住所で保険に入っている場合、保険会社の掛け金の割合で、保険金も按分して支払うんですよ。その家財の査定がね、農協と当社では違うんですよね。」

 私は言いました。

「仕事柄、お宅の損保会社にかなりの数のお客様を紹介しているし、うちも契約するとき、代理店の人は親しいので家族構成もよく知ってるし、農協とも付き合いがあると知ってたのですよ!そんな按分のことなんか説明受けてません。ましてや、申告している家財道具も違うでしょう!」

 けれども、ああ言えばこう言うで弁が立ち、さすが外資系損保の担当者だなとは思いましたが、納得できません。

 翌日、農協の知り合いの役員に聞きました。やはり、農協の支払う予定の保険金査定は結構高く、それをAIUは承知しないそうです。

 それから、何度問い合わせしても埒が明かないので、農協の大本の共済会に連絡しました。やはり、地元の農協では交渉できず、共済会案件になっているとのこと。

 我が家は、経済的にも余裕もないのに、多額の出費のため、少しでも保険金で穴埋めしたいところです。 

 結局、7月14日に雷被害にあって、家財保険金(農協の査定額の半額)が振り込まれたのは、年末12月29日でした!

 頭に来て、きょうだいにAIU保険はすぐ解約するように言いました。もらえる金額は少ないは、偉そうに言われるはで、腹の虫が収まらない私でした。

 その年、雷にあたったのでもしやと、試しにサマージャンボ宝くじを10枚買ってみましたが、見事、300円でした~

 

 その年の夏咲いたハイビスカスです。