高齢者親子二人暮らしJIBIRAのブログ

高齢者親子の日々の生活や経験を綴ります~☆彡

洗濯機を買おうと思ったら受注停止⁉️

 パナソニックドラム式洗濯機が故障しました。もう8年使っています。修理件数が多いらしく、修理は1週間後とメーカーから言われました。部品がないなどで修理ができない場合は、買い換えないといけないかなと思っていました。
 これから年齢を重ねるにつれ、腰をかがめるのはつらくなるので、パナソニックの縦型を検討しようと、参考に家電量販店に立ち寄りました。そこで目にしたのは、下の写真。

 驚きました!新規受注停止になるまでの欠陥とは。洗剤タンク等の水漏れだそうです。それでなくても、上海のロックダウンで品薄だったのに。
 パナソニックは8月25日付けでWebサイトに提示しましたね。
 この数十年、猫も杓子も中国中国と、工場を国内から移転して。パナソニックも組織を大幅に改編して中国依存度がますます高くなり、大丈夫かな?と危惧していました。(自分の極小会社の方がもっと大変でしたが)
 半導体工場も国内地方に点在していましたが、リーマンショックもあり、どんどん撤退し、下請けさんは倒産し。その後の悪夢の民主党政権。優れた理系エンジニアは海外に流出し。今頃になって、台湾資本の半導体工場が熊本にできるとは。

 もっと日本人は自国の誇りをもって企業の技術を磨いてほしいです。

 中国をヨイショしている頃、取引先は研修と称して、中国に旅行に行っていました。そして、自慢です。「深圳はすごいよ!巨大な工業団地だしetc」

 話が反れましたが、幸い無事修理が終わり、洗濯機はまた機嫌良く動いています。

 ある量販店の方に、「パナソニックは中国でダメだけど、気に入ってるからね~ かといってシャープも台湾だし」と言ったら、
「まだ台湾の方がマシですよ。ねぇ、わかりますでしょ。」だそうな😅

千里眼は本当にあった話

 今から35年ほど前の話です。父の体調がすぐれず、たまたま知人に話したところ、真言密教のお坊さんに相談してはどうかと言われました。しばしば、その知人の家に遠方から来るとのこと。私も含め、うちの家族は半信半疑でしたが、興味はあったので、行ってみることにしました。

 まず母が最初行きました。その知人宅には広い和室があり、数名の相談者が参加していました。床の間の前に祭壇が設けてあり、お坊さんの前には鳴動釜(護摩?)というものがあったそうです。一人ずつその釜にお米を投げ入れ、願い事をします。すると、グォーンと音が響きます。不思議なことに、沸騰しているお湯の上の釜に生米を入れるのに、後で出すとお米は生のままだったそうです。

 母は、子供が入試に合格しますようにと心の中で祈ったそうです。すると、お坊さんは「奥さん、何を願われました?残念ですが、その願いは叶えられませんなあ」

 「えっ?そうなんですか?」

 けれど、母は心の中で、いつも模擬試験の成績は合格圏内なので、まさか~と思ったそうです。

 しか~し、翌年の春、桜は散ってしまったのです。緊張して実力が発揮できなかったとのことでした。

 また、そのときに参加していた中年の男性がお米を入れたのに釜が鳴らなかったそうで、その後病気でお亡くなりになられたとのこと。生気がなく、鳴らなかったみたいです。

 後日、個別の相談があり、私ときょうだいが参加しました。

 まず、驚いたのが、お坊さんはうちの場所の大まかな地図と家の間取りをスケッチブックに書いたのです。

 うちは意外なところにも勝手口があり、「ここのドアの外が不浄だからお酒とお塩で清めていつもきれいにしなさい。」

 「この柱に貼ってある観音様のお札は、そもそも貼るものではなく、お仏壇か神棚にお祀りしなさい。」

 「ここに中古の冷蔵庫があるけど、不浄だから家の外に出しなさい。」

 「お父さんの病気は近々病名がわかって、治ります。お父さんが亡くなる時は、ガンで亡くなりますな。」

 家の場所は、知人がおしえる可能性がありますが、その他のことは家族以外知らないことばかりです。観音様のお札は、きょうだいが両面テープで柱に貼ったものですし、中古の冷蔵庫は、知り合いのスーパーが倒産したので、そこのを譲り受けたものでした。

 ただ、父が亡くなる時はガンで、というのは信じられませんでした。親族に誰一人、ガンになった人がいなかったからです。

 しかし、その約20年後、父は肺ガンで亡くなりました。

 その他にも、会社の役員に気をつけるようにと具体的に言われましたが、対処の仕様がありませんでした。

 それから、そのお坊さんには他の知人を紹介したり、いろいろ相談はしていました。一度、なぜそれほどわかるのですか?と聞いたところ、「私には竜の水神さんがついていて、どんなに遠くても瞬時に見に行ってくれて、私の頭の中に見て来たようにすべて映るのですよ。」

 私たちは不思議な体験をしたものです。その後、そのお坊さんのお弟子さん方にも相談したことがありましたが、お師匠さんのような偉大な力はありませんでした。同じように高野山で修行されるそうですが、力の差はあるのですね。

 そのお坊さんは父よりも早く逝去されたので、父の死因が当たりましたと報告はできませんでした。

 ここには書きませんが、もっと細かいことまで予知され、アドバイスもありました。

 そして感動したのが、お弟子さん方も含め、お坊さん方の読経の迫力です!

圧倒されます。テレビでも真言密教護摩炊きの様子がありますが、生で見るとすごいスケールです。

 うちは父方が浄土真宗西本願寺派なので、法事のときはお経をいつも聞いて、法話というのもありますが、退屈でつまらない話ばかりです。(親鸞様ごめんなさい)

 父は恐い人でしたが、たまにギャグを言っていました。

 「あのな、浄土真宗はな、仏教の中では一番楽らしいで。ほっとけ~ってなあ」

今週のお題「冷やし○○」 冷やし中華を初めて食べた思い出

今週のお題冷やし中華」にしました。

 私のブログは暗い内容ばかりですが、今日のもそうです。

 私の父はいわゆる「酒乱」で、私が子供の頃から頻繁に毎日のように家庭内で暴れていました。世間の「ちゃぶ台返し」どころではありません。仕事や外でのストレスを家庭内で発散していたのでしょう。それにしても、度が過ぎていました。

 外で飲んで帰宅しても、家で飲んでいても、何かしら難癖をつけます。私が咳をすれば、お前わざと咳をしてるな、料理の味が薄い濃ゆい等々。テレビの番組内容にまでケチをつけたり。突然、お酒のグラスを投げ付けます。テレビをたたき割る、ガラス戸も蹴って壊す、タンスの扉を割る、包丁を所かまわず突き立てる・・・家の畳や床がガラスの破片だらけになります。素手でガラスを割って手を切ってもへっちゃらです。母にも殴る蹴る髪をつかんで引きずり回す。私たち子供は、自分の部屋で頭から布団をかぶって早くおさまりますようにと祈るばかりです。下のきょうだいが怖くてよく泣くので、私はなだめるのがやっとでした。

 物を壊すだけならまだしも、母への暴力が尋常ではなかったので、よく母子で逃げました。近所の方々の家にかくまってもらって、朝方暗いうちに、父が眠ったか様子を探って、そろりと帰ったものです。

 そのうち、父は、かくまってもらった人たちにも文句を言うようになったので、暴力の程度がまだ軽いうちは庭に隠れたりしましたが、家にいられないほどの暴力の場合は、安旅館に一泊したりしました。

 私が小学校5年生のとき、あまりにもひどい暴力の日があり、母の親戚の紹介で会社経営者の空いていた借家に住まわせてもらい、母は仕事に就きました。ちょうど夏休みで、私たち子供は、日中母が仕事に行っている間、経営者宅で過ごしていました。私は子供ながらも、そのお宅の家事をよく手伝いました。

 やっと、本題です。そのお宅は大家族でした。ある日の昼食に「冷やし中華」を作ることになり、私もキュウリを刻んだり手伝って、十人分くらいあったと思います。うちの家庭では、冷やし中華を食べる習慣がなく、生まれて初めて食べたのです。

 父からの解放感もあり、その家族の方々の優しさに触れたこともあり、その「冷やし中華」の味は格別に美味しいものでした。キュウリのしゃきしゃき感、みずみずしいトマト、ロースハム、錦糸卵、甘酸っぱいタレ、紅ショウガも添えて。皆で楽しくおしゃべりしながら、ほんとうに美味しかった!

 その楽しい夏休みは、父の執念により、終わりました。親戚中を探し回り、やむを得ず、帰ることになったのです。母はずっと離婚したかったのです。でも、逃げても逃げても探し出すその執念の源は何なのだろう。家族に見捨てられて孤独になりたくなければ、反省すればいいのに、到底不可能でした。

 壮絶な日々の中のつかの間の美味しい思い出「冷やし中華」でした。

やっと理想の歯医者さんに出会えた!

 私は長年、驚異的な体力を持っているのですが、反面、病気の問屋でもあります。特に、歯医者さんに関しては、流浪の民と化していました。それが、最近、ついに!理想の歯医者さんに出会えたかもしれないのです。まだ、数回目の治療なので、断言はできませんが。

 長らく、SNSYouTubeなどインターネットも使い、「歯医者さんの選び方」や「歯科的な技術」、「歯科学会の認定医や専門医」など、なるべく理想に近い歯医者さんを見つけるため、いろいろ調べていました。もちろん、自由診療のみであれば、選択肢も広がるのでしょうが、いかんせん、年金暮らしなのでなるべく保険診療にしたいのです。

 私は歯や歯茎が弱いようです。父に似たのでしょう。母ときょうだいは、歯のトラブルは一切ないのです。

 歯を一生懸命磨いているのに、激しい歯ぎしりが原因らしく、歯周病に虫歯、今では歯槽骨まで溶けています(泣)ブラッシング指導も受け、かなり上手くなったつもりです。

 ずっと歯医者さんには通っていたのですよ。けれど、過去を振り返れば、いろいろな歯医者さんがいますねぇ。地方の某国立大歯学部付属病院に二年間毎月通いました。そして、毎月研修医が変わり、助教の先生は最終チェックもせず、結局、歯周病がひどくなり、歯を抜くことになりました。一応、口腔外科でちょっと大げさな手術って感じです。その時は、担当の総合診療科の研修医が抜歯することになっていました。ただ、安心だったのは、地元では高名な優秀な中堅口腔外科教授が指導で付き添っていました。

 麻酔は二回時間差で打ち、しばらく待ちます。そして、歯茎を少し切開するのですが、教授が「あ、そこはもう少し(何とか)・・・いや今度は(何とか)・・・私がしましょう!」と、結局、奥歯を抜くのに腕の良い教授にしていただきました。「最後はね、歯茎をね、なだらかになるように切ってね、すると治りが早いし、跡がきれいになるから・・・」説明を聞きながら、何か可笑しくなってきました。

 けれど、その翌々日、痛み止めを二日分しかもらっていなかったので、痛みと腫れがひかず、日曜日になり、仕方なく、ショッピングモール内の歯科クリニックに行きました。

 それからも、毎回、研修医は歯周ポケットの検査は一生懸命行うのですが、超音波スケラ―は、撫でる感じ。

 ある夏の暑い日、午前中、庭の草取りや清掃をして、その後シャワーを浴びてから歯学部付属病院に行きました。その日の歯科医(やっぱり研修医かな?)は一時間半はみっちりポケット検査、30分スケーリング。一度もうがいさせず、首の後ろはジンジンしてしびれてきました。やっと終わって、会計を済まし、トイレに入った途端、ぐるぐる目が回り、頭はふらふら立っていられなくなりました。同時に、吐き気をもよおし(ちょうどトイレでよかった⁈)しまいに胃液までもどしてしまいました。トイレ内の緊急ボタンをやっとの思いで押し、鍵を開けてだれか来るのを待ちました。さらに吐きながら。女性看護師さんかな?車イスを持ってきてくれ、それにやっと座り、どこかに連れて行かれました。どうやら、総合診療科の上の階の治療室みたいな部屋ですが、だれもいません。そこの歯科専用イスに座らされ、後ろに倒そうとしたので、もっと目が回ると言ってやめてもらいました。それでもげーげー吐くので、洗面器みたいなものを持たされ、やっと担当の助教が来ました。苦しくて、目も開けられない状態の中、助教に隣の大学病院の内科に連れて行ってもらえませんか?とお願いしたら、それはできないと言います。「病院には、ご家族を呼びますので、ご自分たちで行ってください。」

 え~!ここは病院じゃないのかよ?隣は国立大医学部付属病院じゃないのかよ?難しい脳外科の手術もできるだろ~苦しくて吐きながら、意識もうろうとしながら、心の中で叫びました。待っている間、数回血圧を測りに来ました。でも、だれも付き添ってはくれませんでした。その間、私が死んだら、どうするつもりだったんだろう・・・

 小一時間後、母ときょうだいがタクシーで来てくれました。私は車を停めたままだからです。タクシーの中で、知り合いの脳神経外科病院に電話連絡していたので、きょうだいが私の車を運転して、急いで向かいます。

 脳神経外科では、急いでCTを撮り、点滴をしてくれました。医師曰く、「熱中症ですね。あぶなかったです。」

 てっきり、首の後ろを圧迫されていて、急に血液が頭に流れたので、それが原因の重度の頭痛かと思っていたのです。

 それっきり、某国立大学歯学部付属病院には行かなかったです。この話には、まだおまけがあります。

 以前行ったショッピングモールの歯科クリニックに通うことにしました。すると、頑固な歯石が取れていないので、麻酔をかけて、取っていきましょうと。今思うとルートプレーニングなのですね。二年間も歯学部に通っていて、歯石がたまっている?

 このお話は、8年くらい前の話ですが、せっかく良い歯科クリニックに行ったのに、遠くに移転してしまったのです。またそれから、「歯医者さんショッピングもどき」にならざるを得ませんでした。

 二年前から私学の歯学部大学付属病院に通っていましたが(懲りないなあ)、今回、理想的な歯医者さんでは、また頑固な歯茎の中の歯石があるということで、苦労して取ってくださいました。そして、古い銀歯の中は虫歯になっていました。

 ここは、マイクロスコープ、ラバーダム、う蝕検知液など、私が勉強したことはすべて備わっています。保険診療にもかかわらず、一回の治療は一時間です。

 これで、お口の中の悩みが消えてくれることを期待しています。日々の自分自身のメンテナンスが大事ですけどね。

 またまた、なが~い文章になりました。

今週のお題「人生最大のピンチ」

今週のお題「人生最大のピンチ」

は、今になって思えば、「災い転じて福となる」かもしれませんが、内容はかなり深刻ですので、デリケートな方はご注意くださいね。

 ズバリ!会社の倒産です。

 直接的な原因は、政策金融公庫の担当者に振り回され、融資が決定しなかったことです。要求された試算表や諸々書類を提出していたのにもかかわらず、いつもの担当者は留守ばかりで新米社員に対応させたのです。そして、ズルズル審査を引き延ばされ、次は一か月後の決算書を見てから融資しましょうと。断るなら、早く結論を出してくれればと恨み節も言いたくなります。それまで、無為に過ごしていたのではなく、他の金融機関にも相談していました。けれど、うちのような債務超過の法人は、必死に売上を上げても月々の資金繰りには焼け石に水です。

 そもそも、借金だらけの会社を父から引き継いだときに清算すればよかったのですが。引き継ぐまで、一社員として昼夜問わず必死に働いていた私にはかなりの顧客がつき、売上・純利益も右肩上がりでした。このまま頑張れば、借入金も減少し、健全な経営に導くことができるのでは?と思っていたのです。

 しかし、うちには父の代から権威を振るっていた役員がいました。経理やしまいには資金繰りや人事まで権限をもつようになっていました。出入りの金融機関や取引先からその役員の不正を私に忠告されても、私には父にはっきりと告げることができませんでした。事あるごとに、「わしと○○さん(役員)が頑張っているからこの会社はなりたっているんだ!黙れ!」と暴力に訴えるのです。

 以前、「ザ・世界仰天ニュース」を見たとき、驚きました。うちの役員と同じ手口で横領し、経営を牛耳っていた経理担当の人間の再現内容でした。その会社は、経営が行き詰まり、跡を継いだ経営者は自殺に追い込まれたのでした。手口は、まず会社の金を自分や家族の口座にうまく移し、会社の資金繰りが滞ったときに善人面で会社に資金を貸すのです。人事的にも社員や取引先や税理事務所の担当者にお祝いやお小遣いを渡し、手なずけていくのです。

 うちは、私が代表者になり、徐々に会社の業績を上げていき、その役員から権限を私に取り戻して行きつつあったとき、役員が致命的なミスを犯し、債務がまた元通り以上に膨れ上がりました。役員には責任を取って辞めてほしいと言いましたが、頑張るからとあの手この手で居座ったのです。

 そして、業務の多忙と資金繰りと私の精神状態は尋常ではなくなっていきましたが、それでも取引先や顧客に迷惑だけはかけたくない一心で、方法を模索していました。冒頭の政策金融公庫の騙しに合う頃にはかなり覚悟ができていて、自殺も念頭にありました。車で崖から転落すれば、保険金で何とかできるのでは?と。

 けれど、親友にそれとなくお別れのメールを送ったとき、察知したのか、思いとどまるよう説得されたのでした。私は母やきょうだいには深刻な問題は相談できずにいました。かえって、神経を逆なでされるからです。

 私は覚悟を決め、信頼している弁護士に相談しました。かねてから、顧客を紹介したり、業務を補助してきた私からの唐突な話に弁護士は非常に驚いていました。いつもの私からはそのように切羽詰まった雰囲気はなく、お客様のことばかり考えて仕事をしていたからです。弁護士からは、「こんなになるまで我慢せず、もっと早く相談してくれたら良かったのに、ほんとうにつらかったですね」と言われたとき、初めて人前で涙が出ました。幸い、売上金の回収がスムーズにでき、顧客にも取引先にも社会保険料・税金も迷惑をかけることなく、破産することができました。金融機関は、保証会社や保証協会や不動産担保があったので、まったくの貸し倒れにはなりませんでした。

 その後、世界中が、新型コロナウイルスによりたいへんな状況になり、中小企業も苦難が続いています。そんな中、その直前に会社清算をすべて完了できたのは、不幸中の幸いというべきなのでしょうか。今破産するとしたら、弁護士費用も捻出できなったかもしれません。

 毎日、母の介護と日常生活をおくりながら、仕事に対する情熱はまだ持っているのに、何もできない日々がもどかしくもあり、でも、ベッドでぐずぐず寝ているとき、これも幸せの一つかもと思える自分がいます。高齢者になる直前まで、徹夜続きで仮眠を取りながら仕事をするときは、ああ、いつかぐっすり眠りたいと思っていたものです。

 これほど長いしつこい文章をお読みくださり、感謝申し上げます。

世界中が早く健康で平和な日が来ますよう、心からお祈りいたします。また、経営に苦労されている方々、くれぐれも命は大切になさいますようお願いいたします。

 私も生きていて心底良かったと思っています。ただ、苦労がたたって、病院通いに忙しいですが。

 

認知症の始まり

 母はいわゆるお嬢様育ちで、天然、わがまま、意地悪、世間体は気にするええかっこしいだが面倒見は悪い、短気ヒステリー、勉強はできない・・・

私たちきょうだいがまあまあの学歴なのは、母に似なかったからだろう。母方の伯父は、天才肌努力家であったし、父方の親類も皆私たちよりも優秀だし。

こう書くと母の長所は無いように思われるが、うーん、長所・・・

 であるから、もともと天然且つ方向音痴なので認知症になかなか気づけなかったのです。

ある年の暮れ、お正月の準備に実家に行くと、食器やグラス類がかなり少なくなっていました。母に理由を尋ねると「私ひとりだし、たくさん食器いらないから捨てた」と。

毎年お正月は大勢が集まるのですが。それが、認知症だったんだ!と気づいた瞬間だったのです。

 近所の脳神経外科に連れていき検査診察を受けると、脳の萎縮も見られ(現在では脳の萎縮があるからといって認知症とは限らないという意見もある)アルツハイマー認知症ですねと診断されました。お薬は、アリセプト10mg処方されました。

 今の主治医は、最初から10mgだったのですねと、つぶやかれましたが。

 最初の認知症診断から約10年、母と同居して3年、年齢とともに進む認知症

 まだまだ仕事を頑張りたかった私にとって、残念な思いもありますが、もう引退してもいいよと神様がくださった時間なのかもしれないですね。

仕事と介護どっちがストレスたまるだろう。う~ん・・・それに収入が・・・